ガス危機から始まった追い風はなぜ鈍ったのか。英国・アイルランドの成功が示す突破口
2022年、ロシアによるウクライナ侵攻をきっかけにガス価格が急騰しました。欧州各国は化石燃料への依存を減らすべく、クリーン暖房への補助金や政策を一気に強化します。EUは「2030年までにヒートポンプ6,000万台」という野心的な目標を掲げ、転換の波は確かに広がり始めました。
2024年には19カ国で231万台が販売され、累計は約2,550万台に到達。しかしその販売ペースは、目標を射程に入れるには明らかに鈍化しています。原因はいくつもあります。長引くインフレが家計を圧迫し、一部の国では補助金が縮小され、申請も複雑化。さらに多くの地域で電気料金がガスの2倍以上という価格構造が、経済的メリットを損ないました。
建設業界の停滞も痛手です。2021年以降、住宅着工許可件数は減少し、新築に合わせて導入されるはずだったヒートポンプの市場が目減りしました。結果、2023年と2024年の販売は伸び悩みます。
とはいえ、全てが後退しているわけではありません。英国とアイルランドは例外的に成長を見せました。英国は最大7,500ポンド(約8,600ユーロ)の補助金を打ち出し、最低効率基準を厳格に設定。ガスボイラーとのハイブリッド型は補助対象外とし、低炭素化の方向性を明確に示しました。加えて、施工者不足を補うため研修制度を拡充し、2024年には受講修了者が15%増加。これは見えにくいが極めて重要な成果です。
アイルランドはさらに早くから長期的かつ安定した政策を展開し、新築市場のほぼ全てを個別ヒートポンプに切り替えました。改修市場も炭素税と補助金を組み合わせた制度で成長中。2024年の販売は前年比19%増で、1,000戸あたりの普及率では欧州5位に。住宅や改修の政府目標が達成されれば、年間5万台から最大10万台への拡大も視野に入ります。
技術面の動きも興味深いところです。2024年に最も売れたのは、リバーシブル空気対空型ヒートポンプ。冷暖房兼用で約87万5,000台が売れ、猛暑化する夏を背景に温暖地域以外でも人気が高まりました。静音化や効率向上も後押ししています。一方、地中熱型や給湯専用は縮小傾向。空気熱源型は設置のしやすさと価格面で依然有利で、今後も主力の座は揺るがないと見られます。
今後の市場には追い風も控えています。EU排出量取引制度の拡張版(EU ETS2)は2027年から暖房分野に炭素価格を導入し、低炭素設備への切り替えを促します。同時に「社会気候基金」が低所得層を支援し、負担を和らげる計画です。さらに、需給調整や蓄電と組み合わせた新しいビジネスモデルが、導入の経済性を高めるでしょう。
その効果は環境面にとどまりません。試算によれば、EUのわずか7%の家庭が化石燃料ボイラーからヒートポンプに切り替えれば、年間130億立方メートルのガス輸入を削減できます。これは、欧州が家庭や給湯のためにロシアから輸入していた量に匹敵します。
雇用面でも影響は大きく、ヒートポンプ産業はすでに欧州で43万人以上の職を支え、地域経済を潤しています。ただし成長を持続するには、電気とガスの価格格差の是正、政策の安定性、そして施工人材の確保という3本柱が不可欠です。英国とアイルランドの成功は、この条件が揃えば、市場が逆風下でも拡大できることを証明しています。
重要キーワード3つの解説
- 電気対ガス価格比:電気料金がガスより大幅に高いと、運転コスト面で化石燃料暖房との差が縮まり、普及が鈍る要因になる。
- EU ETS2:2027年から建物暖房にも炭素価格を導入する新制度。化石燃料暖房を割高にし、低炭素化を加速させる狙いがある。
- リバーシブル空気対空型:暖房と冷房を1台で行えるヒートポンプ。猛暑や温暖化を背景に需要増が続き、今後の成長株とされる。